……おれは人間を殺したんじゃない、主義を殺したんだ!主義だけは殺したが、踏み越すことは踏み越せなくて、こっち側に残ってしまった……ただ殺すことだけやりおおせたんだ。いや、それさえ今になってみると、やりおおせなかったんだ……ところで主義のほうは、ラズーミヒンのばかはまたなんだって、さっき社会主義者を罵倒したんだろう。彼らは仕事好きな、商売に抜け目のない連中で、「人類一般の福祉」のために働いてるじゃないか……だがおれには生は一度与えられるだけで、二度とやって来やしない。おれは「人類一般の福祉」を持っているのはいやだ。おれは自分で生きたいんだ、さもなければ、むしろ生きないほうがましだ。なに、おれはぼんやり「人類一般の福祉」を持ちながら、自分の目くされ金をふところに握りしめて、飢えに迫っている母のそばを素通りするのがいやなだけだったんだ。「おれは人類一般の福祉を建設するために、煉瓦を一つ運んで行ってるんだ。だから、心の慰めを感じてるんだ」だとさ。はっは! どうしてきみらは、おれをすっぽかしたんだ? おれだって、一度きりっか生きられないんだ。おれだってやはり、生きたいんだ……ええっ、おれは美的“しらみ”だ、それっきりさ』ふいに気ちがいのように笑いだして、彼はこうつけ加えた。『そうだ、おれはじっさい“しらみ”だ』彼はひねくれた喜びをもってこの想念にしがみつき、それを掘り返したり、おもちゃにしたり、慰めにしながら考えつづけた。『それはもう、一つ二つの理由だけで明瞭だ。第一に、今おれは自分が“しらみ”だってことを考察してることだ。第二に、おれはまるひと月の間、おれのこの計画は自分の欲望や気紛れのためでなく、りっぱな気持ちのいい目的のためだなどといって、万知万能の紙を証人に引っぱり出そうとして、とんだご迷惑をかけたことだ——はっは! それから第三には、実行にあたって、できるだけの正義と、中庸と、尺度と、数学を遵奉しようと決心して、多くの“しらみ”の中から最も無益なやつを選び出し、しかもそいつを殺してから、自分の第一歩にいるだけのものを、かっきり過不足なしに取ろうとしたことだ(残った金は、つまり遺言状によって、修道院行きというわけなんだ——はっは!)……こういうわけだから、だからおれは、まぎれもない“しらみ”だ』と彼は歯がみしながらつけたした。『もしかすると、おれ自身のほうが殺された“しらみ”より、もっといやなけがらわしい人間かもしれない。そして殺してしまった“あと”で、きっとこんなことをいうだろうと、前から“予感していた”んだ! ああ、じっさい、この恐ろしさに比べうるものが何かほかにあるだろうか! おお、この俗悪さ! この卑劣さ!……ああ、今のおれはよくわかった——馬上に剣をふるいながら、アラーの神これを命じたもう。服従せよ、「ふるえおののける」卑しき者ども! と呼号したかの「予言者」がよくわかる! どこか町のまん中にすーばらしーい放列をしいて、罪があろうとなかろうと、手当たりしだいにどんどんうち殺し、弁解めいたことさえいわなかった「予言者」はほんとうだ。服従せよ、ふるいおののける卑しき者ども、“希望など持つな”、きさまらの知ったことじゃない!……これでいいんだ! おお、どんなことがあっても、どんなことがあっても、おれはばばあを許しはせんぞ!』
髪の毛はぐっしょりになり、わななくくちびるはからからにかわき、じっとすわった目は天井にそそがれていた。
【中略】
ドゥーニャは信じられないといったような驚きの色を浮かべながら、兄を見やった。彼の手には帽子があった。彼は出て行きそうにしていたのである。
「なんだかみんな、まるべぼくの野辺送りをするか、永久の別れでも告げてるようだね」なんとなく奇怪な調子で、彼はこういった。
にやりと笑ったようでもあったが、それはまた微笑ではないようでもあった。
「ぼくたちが顔を見るのも、これが最後かもしれないからね」と彼はさりげない調子でいいたした。
彼はこれを、ふと心のなかで考えたのだが、どうしたはずみか、つい口へ出てしまったのである。
「まあ、お前はどうしたの!」と母は叫んだ。
「兄さん、あなたどこへいらっしゃるの?」なんとなく妙な調子で、ドゥーニャはこう尋ねた。
「ちょっと、ぼくどうしても行かなきゃならないんだ」自分のいおうとしたことに動揺を感じるらしい様子で、彼は漠然と答えた。が、その青ざめた顔には、一種のきっぱりした決心の色が現れていた。
「ぼく、そういおうと思ったんです……ここへ来るみちみち……そういおうと思ってたんです、お母さん、あなたにも……それからドゥーニャ、お前にも。つまりぼくたちはしばらく別れていたほうがいいんです。ぼくは気分がすぐれない、心が落ち着かないんです……ぼくそのうちに来ます、自分で来ます、もし……そうしていい時がきたら。ぼくはあなたがたを忘れやしません。愛しています……どうかぼくにかまわないでください! ぼくをひとりきりにしといてください! ぼくはそう決心したんです、もう前から……それは固く決心したことなんです……たとえ、ぼくの一身にどんなことがあろうとも、破滅してしまうようなことがあろうとも、ぼくはひとりでいたいんです。ぼくのことはすっかり忘れてください。そのほうがいい……ぼくのことなど問い合わせないでください。必要があれば、ぼく自分で来るか……あなたがたを呼ぶかします。ことによったら、何もかも復活するかもしれません……けれど、いまぼくを愛していらっしゃる間は、どうか思いきってください……でないと、ぼくはあなたがたを憎みます、ぼくはそれを感じてるんです……さようなら!」
「まあ、どうしよう!」とプリヘーリヤは叫んだ。
母と妹は激しい驚愕に打たれていた。ラズーミヒンとても動揺だった。
「ロージャ、ロージャ! 仲直りしておくれ、昔どおりになろうよ!」と、あわれな母親は絶叫した。
彼はのろのろと戸口のほうへ踵を転じ、のろのろと部屋から出て行った。ドゥーニャはそのあとを追った。
「兄さん! いったいお母さんをどうするつもりなんですの!」憤りに燃える目で兄を見詰めながら、彼女はささやいた。
彼は重苦しい視線で妹を見た。
「なんでもない、ぼくまた来るよ、ちょいちょいやって来るよ!」自分が何をいおうとしているのか、よく意識していないように、彼は小声でこうつぶやくと、ぷいと出てしまった。
「情知らず、いじわるなエゴイスト!」とドゥーニャは叫んだ。
「あれは——き、ち、が、いです、情知らずじゃありません! あれは発狂してるんです! いったいあなたはそれがわかりませんか? それじゃ、あなたのほうが情知らずです!……」ラズーミヒンは彼女の手を堅く握りしめながら、その耳もとへ口を寄せ、熱した声でささやいた。
「ぼくすぐ来ますから!」死人のようになっているプリヘーリヤに呼びすてて、彼は部屋の外へかけ出した。
ラスコーリニコフは、廊下のはずれで彼を待ち受けていた。
「きみがかけ出して来ることは、ぼくもちゃんと知っていたよ」と彼はいった。「ふたりのところへもどって行って、あれたちといっしょにいてくれ……明日も来てやってくれ……そしていつも。ぼくは……また来るかもしれない……もしできたら。じゃ失敬!」
こういうなり、手もさし伸べないで、彼はどんどん離れて行った。
「いったい、きみはどこへ行くんだい? きみ、どうしたんだ? いったいこれはなんとしたことなんだい? そんなのってあるかい!……」ラズーミヒンはすっかりとほうにくれて、つぶやいた。
ラスコーリニコフはもう一度立ち止まった。
「これを最後にいうが、もうけっして何事もぼくにきいてくれるな。ぼくはなにも、きみに答えることなんかないんだから……ぼくんとこへ来ちゃいけないよ。もしかすると、ぼくやって来るかもしれない……ぼくをうっちゃっといてくれ……だが、あれたちは“見すてないでくれ”、わかったかい?」
廊下は暗かった。ふたりはランプのそばに立っていた。一分ばかり彼らは黙って互いに顔を見合っていた。ラズーミヒンは生涯この瞬間を忘れなかった。ラスコーリニコフのらんらんと燃える刺しつらぬくような視線は、あたかも一刻ごとに力を増して、ラズーミヒンの魂を、意識をつらぬくようであった。ふいにラズーミヒンはぴくっとした。何か奇怪なものがふたりの間をかすめたような感じだった……ある想念が、まるで暗示のようにすべり抜けたのである。なにかしら恐ろしい醜悪なものが、とつじょとして双方に会得された……ラズーミヒンは死人のようにさっと青くなった。
「今こそわかったろう?」ふいにラスコーリニコフは、病的にゆがんだ顔をしていった……「ひっ返して、あれたちのところへ行ってくれ」彼は急にいいたして、くるりと踵を返すと、家から外へ出てしまった……
この晩、プリヘーリヤのもとであったことの顛末は、今さららしく書き立てまい。ラズーミヒンはひっ返して来ると、ふたりのものを慰めて、ロージャは病中静養が必要だ。あれは必ずやって来る、毎日やって来る、彼は非常に健康を害しているから、いらいらさせてはいけない、自分ラズーミヒンは彼によく気をつけて、一流のいい医者をつれて来てやる、云々と誓った……ひと口にいえば、この晩からラズーミヒンは彼らのために、むすこともなり、兄ともなったわけである。
ラスコーリニコフはいきなりその足で、ソーニャの住まっている濠ばたの家をさして行った。
【中略】
「だが、もしかすると、その神さまさえまるでないのかもしれませんよ」一種のいじわるい快感を覚えたラスコーリニコフは、そういって笑いながら、相手の顔を見やった。
ふいにソーニャの顔には恐ろしい変化が生じ、その上をぴりぴりと痙攣が走った。言葉に現せない非難の表情で、彼女はじっと彼を見つめた。何かものいいたげな様子だったけれど、ひと言も口をきくことができないで、ただ両手で顔を隠しながら、なんともいえぬ悲痛なすすり泣きを始めた。
「あなたは、カチェリーナ・イヴァーノヴナの頭がめちゃめちゃになりかかってるとおっしゃったが、あなたご自身の頭だって、めちゃめちゃになりかかってるんですよ」しばらく無言の後に、彼はこういった。
五分ばかり過ぎた。彼は絶えず無言のまま、彼女のほうは見ないようにしながら、あちこち歩きまわっていた。やがてついに彼女のそばへ近づいた。彼の目はぎらぎらと光った。彼は両手で彼女の肩を押えて、ひたとその泣き顔に見入った。彼のまなざしはかさかさして、しかも燃えるように鋭く、くちびるはわなわなとはげしくふるえていた……とつぜん彼はすばやく全身をかがめて、床の上へからだをつけると、彼女の足に接吻した。ソーニャは愕然として、まるで相手が気ちがいかなんぞのように、彼から一歩見を引いた。じっさい、彼はまるっきり気ちがいのような目つきをしていた。
「あなたは何をなさるんです、何をなさるんです? わたしなんかの前に!」と彼女は真青になってつぶやいた。と、急に彼女の心臓は痛いほど強く強く締めつけられた。
彼はすぐ立ちあがった。
「ぼくはお前に頭をさげたのじゃない。ぼくは人類全体の苦痛の前に頭をさげたのだ」彼はなんとなく奇妙な声でいい、窓のほうへ離れた。「じつはね」一分ばかりたって、また彼女のそばへもどって来ながら、彼はつけたした。「ぼくはさっき、ある無礼なやつにこういってやったよ。そいつなんかは、お前の小指一本の値うちもないって……それからまた、今日ぼくが妹とお前とならんですわらせたのは、妹に光栄を与えたわけだって」
「まあ、あなたは何をおっしゃいましたの! しかも、お妹さんの前で?」とソーニャはおびえたように叫んだ。「わたしとならんでかけるのが! 光栄ですって! だってわたしは……けがれた女じゃありませんか……ああ、あなたはまあ何をおっしゃったんでしょう!」
「ぼくはお前の不名誉や、罪悪にたいして、そういったのじゃない、お前の偉大なる苦痛にたいしていったのだ。ところで、お前が偉大なる罪人だってことは、そりゃそのとおりだ」と彼は感激にみちた調子でいいたした。「お前が罪人な訳は、何よりも第一に、“役にも立たぬことに”自分を殺したからだ、売ったからだ。これが恐ろしいことでなくてんだろう! そうとも、それほど憎んでいるこのどろ沼の中に住んでいて、しかも同時に、ちょっと目を開きさえすれば、こんなことをしていたって、だれを助けることにもならないし、どんな不幸を救うことにもならないのを、自分でもちゃんと知っているんだもの、これが恐ろしいことでなくてなんだろう! それに、第一、ききたいことがある」と彼はほとんど狂噴に近い様子でいった。「どうして、そんなけがらわしい卑しいことと、それに正反対な神聖な感情が、ちゃんと両立していられるんだろう? いっそまっさかさまに水の中へ飛び込んで、ひと思いにかたづけてしまったほうがずっと正しい、千倍も正しい、利口なやりかたじゃないか!」
「じゃ、あの人たちはどうなりますの?」とソーニャは悩ましげに、けれど同時に、彼のこうした提議にべつだん驚いたさまもなく、相手をちらと見上げて、弱々しい声でこう問い返した。
ラスコーリニコフはふしぎな顔をして彼女を見やった。
彼はいっさいのことを、彼女のまなざし一つに読んだのである。してみると、この考えはじっさい彼女自身にも前からあったのだ。ことによったら、彼女はもう幾度も絶望のあまり、どうしたらひと思いにかたづけることができようかと真剣に考えたのかもしれない。いま彼の言葉を聞いても、かくべつ驚くこともないくらい、真剣に考えたのかもしれない。彼女は相手の言葉の残酷なことにすら、気がつかなかったのである(彼の非難の意味にも、彼女の汚辱にたいする彼の特殊な見かたの意味にも、彼女はもちろん気付かなかった。そして、それは彼にもわかっていた)。けれど、このあさましい恥ずべき境遇を思う心が、もう以前から、悪夢のようにはげしく彼女を苦しめ、さいなんでいたことは、彼も十分に了解した。今日の日まで、ひと思いに死のうという、彼女の決心を控えさす力を持っているのは、はたしてなんであるか? それを彼は考えた。と、その時はじめて、あの哀れな幼いみなし子たちと、半気ちがいのようになって頭を壁へぶっつけたりする、あのみじめな肺病やみのカチェリーナが、彼女にとっていかなる意味をもっているかを悟ったのである。
しかしそれにしても、これだけの気性をそなえ、曲がりなりにも教育を受けているソーニャが、どんなことがあろうとも、今のままでいられないのは彼も明瞭にわかっていた。なぜ彼女があまりにも長い間、こうした境遇にあまんじていられたのか? 身投げすることができなかったとすれば、どうして発狂せずにいられたのか?——これはなんといっても彼には疑問だった。もちろん、ソーニャの位置は不幸にして、唯一の例外とはけっしていえないながらも、ともあれ社会における偶然の現象である。その点は彼も了解していた。けれどもつまりこの偶然性と、彼女の受けた多少の教育と、彼女のそれまで送ってきた生活などは、このいまわしい道へはいる第一歩において、ただちに彼女を殺す原因となりえたはずである。いったい何が彼女を引き止めているのか? まさか淫蕩の味ではなかろう! そんなことはない、この汚辱はただ機械的に彼女に触れたのみで、まだ真の淫蕩はひとしずくも彼女の心にしみ込んではいない。彼はそれを見てとった。彼女はまのあたり彼の前に立っているではないか……
『彼女の取るべき道は三つある』と彼は考えた。『掘り割りへ身投げするか、気違い病院へはいるか、それとも……それとも最後の方法として、理知をくらまし心を化石にさせる、淫蕩のただ中へ飛び込むかだ』最後の想像は彼にとって、最もいまわしいものであった。けれど、彼はあまりに懐疑派であり、若年であり、抽象家であり、したがって残酷であったから、最後の解決すなわち淫蕩が、何よりも一ばんありうべきことと信じないわけにいかなかった。
『しかし、いったいそれが真実なのだろうか』と彼は心の中で叫んだ。『いまだに心の清浄を保ってきたこの少女も、はたして最後には、あのけがらわしい悪臭にみちた穴の中へ、意識しながら引き込まれて行くのだろうか! いったいその緩慢な堕落はすでに始まっているのだろうか? そして彼女が今までそれをがまんしていられたのも、この悪行がそれほどいとわしいものに思われなくなったからだろうか? いや、いや、そんなことがあろうはずはない!』と彼はさきほどソーニャが叫んだとおりに、心の中でこう叫んだ。『いや、今まで身投げから彼女を引き止めていたのは、罪という観念だ。そして“あの人たち”だ……もし彼女が今まで気が狂っていないのなら……、しかし、彼女の気が狂っていないなんて、そもそもだれがいった? いったい彼女は健全な判断力を持っているだろうか? 健全な判断力を持っていて、さっきいったような、あんなことがいえるだろうか? いったい彼女の持っているあんな考えかたができるだろうか? 滅亡の深淵のふちに——もうそろそろ自分を引きずり込みかけている臭い穴の上に立って、危険を警告されているのを聞こうともせず、手を振り、耳をおおっているなんてことが、いったいまあ、できるものだろうか? ひょっとしたら、何か奇跡でも待っているのじゃなかろうか! いや、確かにそうだ。はたしてこうしたいろいろの事実は、発狂の徴候でないといわれるか?』
彼は執拗にこの想念を守ろうとした。この結論は何よりも彼の気に入った。彼はいっそう目を凝らして彼女の顔に見入った。
「で、ソーニャ、お前は一心に神様にお祈りをするのかい?」と彼は尋ねた。
ソーニャは黙っていた。彼はそばに立って、返事を待っていた。
「もし、神さまがなかったら、わたしはどうなっていたでしょう?」と彼女は力をこめて早口にささやきながら、急にきらきら輝いてきた目をちらと男に投げ、その手をぎゅっとかたく握った。
『ああ、やっぱりそうだった!』と彼は考えた。
「で、神さまはその褒美に何をしてくださるんだい?」彼はどこまでも追及しながら、こう尋ねた。
ソーニャは答えかねるように、長いあいだ黙っていた。その弱々しい胸は興奮のために波打った。
「どうか黙っててください! きかないでください! あなたにそんな資格はありません……」いかつい腹立たしげな目つきで彼を見すえながら、彼女は急に叫んだ。
『そうだったのだ! そうだったのだ!』と彼は執拗く心の中でくりかえした。
「なんでもみんなしてくださいます!」また目を下へ伏せて、彼女は早口にささやいた。
『これが解決だ! これが解決の説明なんだ!』むさぼるような好奇心をいだいて、しげしげと彼女を見ながら、彼はひとりで心に決めてしまった。
新しい不可思議な、ほとんど病的な感情をいだきながら、彼はその青白くやせて、輪郭の不ぞろいなこつこつした顔や、ああいうはげしい火に燃え立ったり、峻厳な力強い感情に輝きうる、つつましやかな青い目や、憤懣と激昂に、なおもふるえているその小柄なからだに見入った。すると、それらすべてのものが、彼の目にいよいよふしぎな、ほとんどありうべからざるもののように思われてきた。『狂信者だ! 狂信者だ!』と彼は心の中でくりかえした。
たんすの上に何やら本が一冊のせてあった。彼はあちこち歩きながら、その前を通るたびに気づいていたが、とうとう手にとって見た。それは露訳の新約聖書であった。古い手ずれのした革表紙の本である。
「これはどこで手に入れたの?」と彼は部屋の端から声をかけた。
彼女はテーブルから三歩ばかり離れた同じ場所に、やはりじっと立っていた。
「人が持って来てくれましたの」彼女は気の進まぬ調子で、彼のほうを見ずに答えた。
「だれが持って来たの?」
「リザヴェータが持って来てくれましたの、わたしが頼んだものですから」
『リザヴェータ! 奇妙だなあ!』と彼は考えた。
ソーニャの持っているすべてのものが、彼にとっては一刻一刻、いよいよ奇怪に不可思議になっていく。彼は本をろうそくのそばへ持って来て、ページをめくり始めた。
「ラザロのことはどこにあるのだろう?」と彼は出し抜けに尋ねた。
ソーニャは執拗くうつむいたまま、返事をしなかった。彼女テーブルへややはすかいに立っていた。
「ラザロの復活はどこ? ソーニャ、さがし出してくれないか」
彼女は横目に彼を見やった。
「そんなところじゃありませんわ……第四福音書です!……」彼のほうへ寄ろうともしないで、彼女はきびしい声でつぶやいた。
「さがし出して、読んで聞かせてください」と彼はいって腰をおろし、テーブルにひじをついて、片手で頭をかかえ、聞こうという身構えをしながら、気むずかしげな顔をして、わきのほうへ目をすえた。
『三週間もたったら、“別荘”のほうへおいでを願いますよ。どうやらぼく自身もそちらへ行ってるらしいんだから——もしそれ以上悪いことさえなければ』と彼は腹の中でつぶやいた。
ソーニャは会得のいきかねるようなふうで、ラスコーリニコフのふしぎな望みを聞き終わると、思いきりわるそうにテーブルへ近づいたが、それでも、本を取り上げた。
「いったい、あなたはお読みにならなかったんですの?」彼女はテーブルの向こう側から、上目づかいに相手を見ながら、こう尋ねた。彼女の声はしだいにいかつくなってきた。
「ずっと前……中学校の時分に。さあ読んで!」
「教会でお聞きにならなかったんですの?」
「ぼくは……行ったことがないんだ。お前はしょっちゅう行くの?」
「い、いいえ」とソーニャはささやくように答えた。
ラスコーリニコフはにやりと笑った。
「そうだろう……じゃ、明日、お父さんの葬式にも行かないの?」
「行きますわ。わたし先週も行きました……ご法事に」
「だれの?」
「リザヴェータ。あの女はおので殺されたんですの」
彼の神経はしだいに強くいらだってきた。頭がぐらぐらしはじめた。
「リザヴェータとは仲がよかったの?」
「ええ……あのひとは心のまっすぐな人でした……ここへも来ましたわ……たまにね……たびたびは来られなかったんですもの……わたしはあの女といっしょに読んだり、そして、……話したりしましたわ。あの女は親しく神を見るでしょうよ」
こうした書物めいた言葉が、彼の耳には異様にひびいた。のみならず、リザヴェータとの秘密な会合や、ふたりとも狂信者であるという事実も、やはり耳新しく感じられた。
『こんなところにいると、自分も狂信者になってしまいそうだ! 感染力を持っている』と彼は考えた。
「さあ読んでくれ!」と彼はとつぜん強情らしい、腹立たしげな調子で叫んだ。
ソーニャはいつまでもちゅうちょしていた。彼女の心臓はどきどき鼓動した。なんとなく彼に読んで聞かせるのがためらわれたのである。彼はこの『不幸な狂女』を、ほとんど苦しそうな表情で見つめていた。
「あなたに読んであげたってしようがないじゃありませんの? だって、あなたは信者じゃないんでしょう?……」と彼女は小さな声で、妙に息を切らせながらささやいた。
「読んでくれ! ぼくはそうしてもらいたいんだ!」と彼はいいはった。「リザヴェータにゃ読んでやったんじゃないか」
ソーニャはページをめくって、その場所をさがし出した。彼女は手がふるえて声が出なかった。二度も読みかけたけれど、最初の一句がうまく発音できなかった。
「ここに病める者あり、ラザロといいてベタニヤの人なり……」と彼女は一生けんめいにやっとこれだけ読んだ。が、とつぜん第三語あたりから声が割れて、張りすぎた弦のようにぶっつり切れた。息がつまって、胸が苦しくなったのである。
ラスコーリニコフは、なぜソーニャが自分に読むのをちゅうちょするのか、そのわけが多少わかっていた。しかし、そのわけがわかればわかるほど、彼はますますいらだって、ますます無作法に朗読を迫った。彼女はいま“自分の持っているもの”を、何もかもさらけ出してしまうのが、どんなにかつらかったのだろう。それは彼にわかりすぎるほどわかっていた。彼女のこうした感情は、じっさい昔から、ことによったらまだほんの子供の時分から、不幸な父と悲嘆のあまり気のふれた継母のそばで、飢餓に迫っている子供たちや、聞くにたえぬ叫びや叱責などにみちた家庭にいる時分から、彼女の真髄ともいうべき“秘密”をなしていたに相違ない。そのことも彼は了解した。が、それと同時に、こういうことにもはっきり気がついた——いま彼女は朗読にかかりながら、心を悩ましたり、何やらひどく恐れたりしているくせに、一面では、そうした悩みや危懼を裏切って、ほかならぬ“彼”という人間にぜひとも“今”、あとで何事が起ころうとも!……読んで聞かせたい、聞いてもらいたいという願望が、苦しいまでに彼女の心を圧していたのである。彼はそれを彼女のひとみに読み、感激にみちた興奮によって会得した……彼女は自分を制御して、第一節のはじめに声をとぎらせたのどの痙攣を押しつけながら、ヨハネ伝の第十一章を読みつづけた。こうして彼女は十九節まで読み進んだ。
「多くのユダヤ人、マルタとマリヤをその兄弟のことによりて慰めんとて、すでに彼らのところに来たりおれり。マルタは、イエス来たまえりと聞きてこれを出迎え、マリヤはなお家に座せり、そのときマルタ、イエスにいいけるは、主よ、なんじもしここにいまししならば、わが兄弟は死なざりしものを。さりながらたとえ今にても、なんじが神に求むるところのものは、神なんじにたもうと知る」
ここで彼女はまた言葉を切った。又しても声がふるえてとぎれるだろうという恥ずかしさを、予感したからである……
「イエス彼女にいいけるは、なんじの兄弟は甦るべし。マルタ、イエスにいいけるは、終わりの日の甦るべき時に、彼甦らんことを知るなり。イエス彼女にいいけるは、“われは甦りなり、いのちなり”、われを信ずるものは、死すとも生くべし。すべて生きてわれを信ずるものは、永遠に死することなし。なんじこれを信ずるや? 彼女イエスにいいけるは——」
(ソーニャはさも苦しげな息をつぎ、句読ただしく力をこめて読んだ。それはさながら全世界に向って説教でもしているようなふうであった。)
「主よ、しかり! われなんじは世に臨るべきキリスト、神の子なりと信ず」
彼女はちょっと朗読をやめて、ちらとすばやく“彼の”顔へ目を上げたが、大急ぎで自己を制し、さらに先を読みつづけた。ラスコーリニコフは腰をかけたまま、そのほうをふり向こうともせず、テーブルにひじ突きしてそっぽを見ながら、身動きもしないで聞いていた。ついに第三十二節まで読み進んだ。
「マリヤ、イエスのところに来たり、彼を見て、その足もとに伏していいけるは、主よ、なんじもしここにいまししならば、わが兄弟は死なざりしものを、イエス彼女の哭きと、彼女とともに来たりしユダヤ人の泣くのを見て、心を痛ましめ身ふるいていいけるは、なんじいずこに彼を置きしや? 彼らいいけるは、主よ来たりて見たまえ、イエス涙を流したまえり。ここにおいてユダヤ人いいけるは、見よ、いかばかりか彼を愛するものぞ。その中なるものいいけるは。盲者の目を啓きたるこの人にして、彼を死なざらしむるあたわざりしや?」
ラスコーリニコフは彼女のほうをふり向いて、胸をおどらせながらその顔を見た。そうだ、はたしてそうだった! 彼女はすでにまぎれもなくほんとうの熱病にかかったように、全身をぶるぶるふるわせていた。彼はそれを期待していたのである。彼女は偉大な前後未曾有の奇跡を語る言葉に近づいた。偉大な勝利感が彼女をつかんだ。彼女の声は金属のように、さえたひびきを帯びてきた。内部に満ちあふれる勝利と歓喜の情がその声に力をつけた。目の中が暗くなったので、行と行とが入り交ってきたが、彼女はそらでちゃんと読むことができた。『盲目の目を啓きたるこの人にして……あたわざりしや?』という最後の一節では、彼女はちょっと声を落として、信ぜざる盲目のユダヤ人の疑惑と、非難と、中傷を伝え、また彼らが一分の後に、さながら雷にでも打たれたように大地に伏して号泣しながら信仰にはいった気持ちを、燃えるような熱情をこめて伝えたのである……『“この人も、この人も”——同じように盲目で不信心なこの人も、すぐにこの奇跡を聞いて、信ずるようになるだろう、そうだ、そうだ! すぐこの場で、たったいま』と彼女は空想した。彼女は喜ばしい期待に全身をふるわしていた。
「イエスまた心を痛ましめて墓に至る。墓は洞にて、その口のところに石を置けり。イエスいいけるは、石を除けよ。死せし者の姉妹マルタ彼にいいけるは、主よ、彼ははや臭し、死してよりすでに“四日”をへたり」
彼女はことさら、この“四日”という言葉に力を入れた。
「イエス彼女にいいけるは、なんじもし信ぜば神の栄を見るべしと、われなんじにいいしにあらずや。ついに石を死せし者を起きたるところより取り除けたり。イエス天を仰ぎていいけるは、父よ、すでにわれに聴けり、われこれをなんじに謝す。われなんじがつねに聴くことを知る。しかるにわがかくいうは、傍に立てる人々をして、なんじのわれをつかわししことを信ぜしめんとてなり、かくいいて、大声に呼びいいけるは、ラザロよ、出でよ、“死せし者”……」
(彼女はさながら自分が、まのあたり見たもののように、感動にふるえて、身内をぞくぞくさせながら、声高く読み上げた。)
「……布にて手足をまかれ、顔は手巾にてつつまれて出ず。イエス彼らにいいけるは、彼を解きて歩かしめよ」
「“その時マリヤとともに来たりしユダヤ人イエスのなせしことを見て多く彼を信ぜり”」
彼女はもうその先を読まなかった。また読めなかったのである。彼女は本を閉じて、つと、いすから身を起こした。
「ラザロの復活はこれだけです」と彼女はきれぎれに、きびしい調子でこういうと、彼のほうへ目を上げるのを恥じるかのように、わきのほうへくるりとからだを向けて、身動きもせずにじっと立っていた。彼女の熱病的な戦慄はなおつづいていた。ゆがんだ燭台に立っているろうそくの燃えさしは、奇しくもこの貧しい部屋のなかに落ち合って、永遠な書物をともに読んだ殺人者と淫売婦を、ぼんやり照らし出しながら、もうだいぶ前から消えそうになっていた。五分かそれ以上もたった。
「ぼくは用があって、その話に来たんだ」ラスコーリニコフは眉をしかめながら、とつぜん声高にそういって立ちあがり、ソーニャのそばへ近寄った。
こちらは無言で彼のほうへ目を上げた。彼のまなざしはことに峻烈で、その中には一種の荒々しい決意が現れていた。
「ぼくは今日、肉親を捨ててしまった」と彼はいった。「母と妹を。ぼくはもうあれたちのところへは行かないのだ。あっちですっかり縁を切って来た」
「なぜですの?」とソーニャは度肝を抜かれたようにたずねた。
さきほど彼の母と妹に会見したことは、自身でこそはっきりしないけれど、彼女になみなみならぬ印象を残していた。彼女は親子兄弟絶縁の報告を、ほとんど恐怖に近い気持ちで聞いた。
「今のぼくにはお前という人間があるばかりだ」と彼はいいたした。「いっしょに行こうじゃないか。……ぼくはわざわざお前のところへ来たのだ。ぼくらはお互いにのろわれた人間なのだ。だからいっしょに行こうじゃないか!」
彼の目は輝いた。『まるで半分きちがいだ!』とソーニャは考えた。
「どこへ行くんですの?」と彼女は恐ろしそうにたずねて、思わず一歩あとへしさった。
「ぼくがどうして知るもんか? ただ同じ道づれだということが、わかっているだけだ。それだけは確かに知っている——ただそれだけなんだ。目あては一つだ!」
ソーニャは彼をじっと見てはいたが、何ひとつわからなかった。彼女はただ彼がこの上なく、限りなく不幸だということだけ了解した。
「お前があいつらに話をしたって、だれひとりわかってくれるものはない」と彼は言葉をつづけた。「ところが、ぼくはわかった。お前はぼくにとって必要なんだ。だから、ぼくお前のところへやって来たんだよ」
「わかりませんわ……」とソーニャはささやいた。
「そのうちにわかるよ。お前だってぼくと同じことをしたじゃないか。お前もやっぱり、踏み越えたんだよ……踏み越えることができたんだよ。お前は自分で自分に手をくだした。お前は一つの生命を滅ぼしたんだ……“自分の”生命を、(それはどっちだって同じだからな!)お前は精神と理性で生きていける人間なんだよ、しかしけっきょくセンナヤ広場で終わる運命なのだ……けれど、お前には持ちきれない。もし“ひとりきり”になったら、ぼくと同じように気が狂うだろう。お前はもう今でも気ちがいじみている。してみると、ぼくらふたりはいっしょに同じ道を行くべきなんだ! 行こうよ!」:ドストエフスキー [罪と罰]
20091225
:15
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