至極の美が正しく把持して行く、その厳粛な悲しさ。そこにはあの「偉大なる者」の真実の姿が現れているのであった。
「ああ聖母(マリヤ)、美の女神(ヴィナス)私は初めてあなた方が二つであって、実に、一つであるという事を知ります。」
伏せられた睫毛は濡れた。この儘の、この瞬間に自分は死んでも好いと思ったのであった。
阿字子は、砂を長く、遠く彼方にと、歩み続けて行った。
「この額を、死後に飾るものは、明星のほかに何物もないほどの、好い子にならなければならない。」
【中略】
「霰が散っていますか。緑さん。」
阿字子はたずねて見る。
「外は、好いお天気ですよ。」
と誰かの声が答える。
「私は、夢を見ていたのかしら。」
阿字子はそう呟いてそれきりまた、睡眠の中に溶け入ってしまった。
「矢張り、まだ真実に意識が恢復してはいないのですね。」
緑と母とは、悲しくうなづき合っていた。
阿字子は、砂上に寝ころんでいた。海がだんだん荒れ始めて紺碧の水が、手鞠のように沢山の船をころがした。そうして船は、いくつでも、海の外に投出されて行った。波が高くなって、ずんずん寝ている阿字子の方に歩み寄った。阿字子は、身動きも出来ないほどの恐怖の為に堅くなってそれを見ていた。「もう逃れっこなしだわ。」と思い乍ら。あんなに瑠璃色の美しい波を見たことは初めてである。あんなに雪白の波頭を見たことも初めてであった。「ああ私は、さらわれる。」と思った瞬間に、波は阿字子を、抱き込んだ。母の姿が小さく砂上に立って、此方を見ているのが波の底から見える。しかし母は阿字子がそこにいるとは、少しも気がついていないように見えた。阿字子は、呼ぼうとして声が出なかった。阿字子は身悶えして叫んだ。しかし、矢張りその声は母の耳には届かなかった。母は知らん顔してずんずん彼方へ去って行く。
「ああ、行ってしまってはいやです。お母さん。」
【中略】
「阿字子。あなたは、いつか、空に、こんなお話をしていたじゃないの。森の奥に、母さんと二人きり住んでいた少年が、或時騎士の革帯を見てから、もうどうしても母さんから、離れて行かなければならなくなって、ならなくなって行ってしまったのだって。それから、恐ろしい罪に呪われて彷徨って、歩って、でも、おしまいにはとうとう聖杯を見ることが出来たのだって。」
「ええ、ええ。そんなお話をしたことがあってよ。」
「あれは、誰が罪にまで、その少年を追いやったのかってきかれたらば、阿字子は、何て返事をすること。」
「阿字子もそれを考えているの。」
「誰が悪いのでもないと思うわ。運命よ。少年がそれを見た騎士の革帯だって、腰にまかれて、きらきらと、光っているべき筈のものなんでしょう。」
「だから緑ちゃん。阿字子は、どうしても、聖杯に浄められるまでは、宿なしの犬のように、彷徨って歩くのよ。森のおくの、お母さんの尊い血は、その為に流されたのですもの。」
「阿字子は、革帯を見たんじゃありませんか。だから、どうしても浄められる時が来なければ、嘘だと思うわ。これは緑にも云うべき事だけど。」
「浄められる時があるでしょうか。」
「有りますように。」
と緑は恰も、神の宥恕を乞うもののように、眼を仰いで云った。
「きっとその信仰が無くなれば、私達は生きてはいられないんですもの。」
「きっと好い子になります。」
阿字子はそう云って、心の中につけ加えた。
「マリア様、アフロジテ。阿字子を守って下さいまし。」
阿字子の心はまたしみじみと忘れられ、そむかれた故郷を思い出すように、希臘の永遠の静謐に返って行くのを覚えて、それは恰も新しい世界への旅立のように、胸に震える寒気を呼び起こしたのであった。:野溝七生子著「山梔」
20100228
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