20100226

:38

 夕暮れがだんだん迫って来た。
 白い厚味のある花弁と芳烈な香を持った繊細な小枝を見上げて子供は立っていた。
 透明な空の下に静かさが一ぱい充ちていて、街道を行く遠くの人声までもききとれるのであった。
 山梔はぷんぷん薫っていた。子供は折りとろうとして、折りとろうとしていくたびも手を伸ばしたがやっと下枝の病葉にとどく位に小さかった。
 子供はお母さんのことで頭が一ぱいだったので、花を愛するお母さんを喜ばすことよりほかには何も考えてはいなかった。一生懸命のその姿は、空の彼方にまで遠く腕を伸ばして何物かを掴もうとしているようにも純潔であった。
 そこは、いつも子供が学校の帰途には寄り道して一時間の上もそこの娘達と遊んで行くことになっている寺院の庭であった。
 その年頃には何も彼もが生まれて初めての経験であるように、小さい山梔の花は、生まれて初めて見た清い芳烈な花だと子供には思われた。
 いつもお母さんの坐っている後の茶棚の上の小さな花瓶に、その枝を挿すことを考えて、小さな足の先きに精一ぱいの力をこめて突立って手を伸ばしていた。子供はやがて見上げ見上げ、その木の周囲を一まわりしたが再び、元の足場に来た時も、一度手を伸ばした。
 根気よく、幾度となく伸び上がり伸び上がり、そしては小さな踵をすとんと落して、また伸び上っている子供の体を、後から突然に抱え上げた、白い指の長い女の両手がある。
 女は何も云わないで子供を差し上げたので、驚いて口も利かれず体を捻ってあどけない顔を俯伏せに、少し蒼ざめた片頬笑みの女の顔を見下した、その時、すらすらと花の着いたしなやかな枝が子供の額に触れて、芳香があたりに散った。
 子供の頭の後には高い拡がった空があって、落日のおごそかな光を、二人の上に投げていた。
 女は子供を下に降すと、清らかな袖口から真直ぐに腕を伸ばして白い花の枝を折って呉れた。
 それを手に持たせながら、身体を曲げて女は子供に訊ねた。
「お家はどこ? 私、誰だか知ってること?」
「ええ、知ってるわ。」
 子供は半ば恐れに気を奪われながら答えた。
 子供達が、遊んでいる時、どうかしたはずみに、広い庭の端れに突き出た茶室風の一室の窓下に近づこうものなら、きっと寺の娘の一人が、袖を引っぱって、遠ざからしていた、その部屋にいていつも本許り読んでいる。子供等の「魔法使」であることを子供は知ったからであった。
 女の妹達は、よく子供等にその話をしてきかした。姉さんは魔法で以て、どんな強情な人にでも、自分の云うことをきっときかしてしまう人である事や、いつかも大きい従兄が大そう強情を張っていたけれど、いつの間にか姉さんの云っていたとおりに、ふいと立って、その時縁先に置いてあった、住職の秘蔵の秘蔵の薔薇の鉢植えの花を挘って、大そう住職に叱られて、そしてそれが魔法のせいだとわかると、住職が手を拍って笑ったりしたことや、そのほかいろいろな話を、子供は思い浮べて、空想好きな小さな心は、好奇心と恐れとの中で、まじまじと、女を見上げるのであった。女はびっくりするほど美しく見えた。子供は心のうちで、自分の姉だってこんなに美しくないと思った。女の眸は、姉のそれに比べると大そう冷たかった。その眸でじっと見詰められると、子供は胸が苦しくなるほどに女が好きになった。:野溝七生子著「山梔」

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